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の飯崎鼻(猪崎鼻)から北へ1.4キロメートル奥に船がかりできる砂浜が東西に広がる。さらに北側東寄りに標高80メートル足らずの「津の峯」があり、そこから南東へ平地が展がっている。津の峯を頂点に東西へ山裾が流れ、西側の山へ飯崎鼻に連なっている。
さらに東側の流れは津の峯からほぼ南へ約800メートルの尾伏鼻に至る。標高100メートルの出崎だが、この連山が南北に延びる西岸と約600メートルの幅(東西)で平行に日向灘と区画している。尾伏から南東に位置する飯崎の間は約800メートルの湾口となる。沖合4キロメートルの海上南に大島がある。さらに大島へ尾伏から裸八重、七ツ八重、小場島など埋瀬を含めて多くの小島が点在している。
南に口を開き、北と東西の三方に山をめぐらしている。天の恵み。まさに天然の良港である。
17世紀初期には海外交易を閉ざされた飫肥油之津は、奥山に産出する木材の積み出しでよみがえる。戦国時代が明けると、各地で大名の城下づくりが本格化する。戦禍で荒廃した町は復興に走った。物資の輸送は廻船建造を促し、木材需要の高まりで港運の発達を進めた。南九州の山林資源は藤原時代から重宝されていた。徳川政権が天下を平定すると、幕藩体制は進み城下まちづくりで一挙に消費物資の需要が高まった。経済の高度成長である。
まず、伊東氏が杉弁甲材や楠材を造船材として搬出した。堺港や瀬戸内海沿岸の播磨などに海上輸送した。油之津には荷船の千石船が木材の積み込みを待って錨をおろした。
藩政初期、北郷など山地から伐り出した木材は、川を下ろして梅ヶ浜の広渡河口から日向灘の海上に漕ぎ出し、さらに尾伏鼻の東側海上をめぐって油津港に寄せる方式が主流だった。ときには余りに大きな材は海上を曳き漕ぐことができず、梅ヶ浜に揚げて船積みを工夫することもあったようだ。
木材の川下しの苦心もさることながら、河口から海に出、鼻をめぐって港内に寄せる方式は、潮流や強風で沖合へ流失する損失は大きく、人夫の生命の危険も少なくなかった。港内に屯す荷船に木材を積み込むまでの労力は大変な苦労があった。江戸初期には松材や楠などの大材を主力商品としていたが、やがて弁甲材の杉材が一般建材を含め需要の急増をみた。従来の物資輸送手段では間尺に合わないほどの時代をむかえた。船による物資の大量輸送手段が急がれた。米廻船、樽廻船が京阪の名産地から江戸湾をめざした。関西の商人らは阪神経済を背負って新生の大消費地江戸へ移った。江戸築城は人口の急増を生み、短い時期で江戸文化を築くほどの都市化をみた。これに対応する廻船建造が瀬戸内海の作場を潤し、造船用材弁甲杉の産地日向飫肥藩でも、伐れば売れた時代をむかえ、さらなる生産性の向上が求められた。油之津は弁財船による木材積み出し港として重要性を増し、天然の利を得て播磨灘への航路は荷船の往来で賑わったのである。
飫肥藩は寛永のころ、藩財政の建て直しもあって杉の植林を大々的に行った。長期展望の中で山地から港内での船積みに至る効率を高める手段が論じられるようになり、五代藩主伊東祐実(洞林公)の17世紀中ごろに弁甲材を主体の木材搬送の合理化案をめざして堀川運河の開削が企てられた。川下しの材を最終拠点の河口から海に漕ぎ出す旧来の方式を改革し、損失の防止に取組んだ。広渡川の河口、梅ヶ浜の龍神を祀る洞窟の上流点・璋子ヶ島の西側に石堰と水門を築き、津之峯の北側を西に向かって川水を導流する堀川を造成、吾平津神社下を堀割って港の背後地を貫流し、木材を港内に送り込む「運河づくり」である。
飫肥伊東氏中與の祖と云われる洞林公祐実は五代藩主として林業振興につとめた人だが、その振興策の重要な一つとして堀川運河の開削と云う飫肥史上稀な事業を英断した。洞林公は家中から中村与右衛門、田原権右衛門を堀川奉行に事前調査のあと、天和3年(1683)12月5日、土功を起こした。飫肥はもとより清武領民の全てを動員する人海戦術をもって昼夜を問わず工事を進めた。前代未聞の大規模なプロジェクトには多くの困難がともなった。
堀川運河は完成までに28ヵ月、2年4ヵ月を要したが天和3年12月5日の着工からほぼ1年目の貞享1年11月16日、飫肥地方に大地震があり、飫肥城本丸が壊れるほどの被害が発生している。堀川運河の開削工事にどれほどの支障があったか明らかでないが、地震規模から推して油津など海辺では津波の被害もあったとみられ、開削工事の進捗状況に影響が出ていることが考えられる。
祐実公は難工事に尻ごみする家臣らには岩をも貫く信念を求め、秦の始皇帝が万里の長城を築いた苦心を説いて、堀川完工を督励したと伝えられる。堀川奉行が郡代に更迭されたのが貞享2年6月で、工事の進み具合に問題があってのことと思われる。それは大地震から約半年後の人事で、突然の出来事であったが、飫肥城改築の願いを幕府に提出したのが人事異動の2ヵ月後の8月だったから、堀川の工期が長びくのは許されぬ厳しい環境が生まれた。
海辺の最終工区とみられる河口付近は、荒波が寄せる

 

 

 

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